多くの人が「楽しみ」を共有したい『景観』という街の資産があります…。 しかし、とても残念なことに、軽率な行動をする人が後を絶たず、その「楽しみ」が全ての人から奪われる可能性もあることを、私たちはそろそろしっかりと認識しなくてはいけません。
毎年、自宅マンション前の神社には、サクラが綺麗に咲きます。
辺りが暗くなり始めると、この季節だけに設われる桃色の提灯で、さらに幻想的な世界が浮かびかがってきたりもして…。
このお花見のシーズンには、境内に隣接する公園に約10日間ほど露天商が立ち並びます。
提灯の電燈が切れる22時過ぎまで、窓から伝わる花見客の賑わいも、騒音という感じではなく、ちょっとした季節の風物詩となります。
ところが…。
数年前から、とても残念な事が起きました。
その残念な事とは…夜の花見客による近隣住宅敷地内への「立ちション」が後を絶たないということでした。
自宅敷地内に平気でそうした粗相をされていることを目の当たりにした時は、愕然としました。
特に、マンションの駐車場、植栽場所などは、ちょっとした陰になるため、都合よくトイレ替わりに利用しているようです。
しばらくマンションの前で見張っていると、注意喚起してから5分も経たないうちに、また新たな不届き者が…。
この花見シーズン中は、公園内に簡易トイレも臨時設置されています。
しかし…驚くのは…簡易トイレが空いていても、公園から道路を挟んだ住宅敷地内で立ちションをしているという実態です。
ほろ酔い気分で、罪悪感も薄れている行動なのでしょう…。
簡易トイレは狭くて臭いというイメージからなのか、トイレは使わずに、近隣敷地内で用を足すという行為と推察されます。
住民主導で、マンション管理組合で大切に植栽している草木に、尿酸を撒かれたり…
外壁タイルだけでなく、酷い場合は、マンションエントランスのガラス窓に向けて粗相をしています。
深夜に住民がマンションエントランスを通ることは少ないとはいえ…通勤帰宅の住民や、若い女性が、ガラス越しに見たくもない露出部分も目にすることもあるかもしれないのに…。
もちろん、住民としてはその「立ちション」する不届き者には注意を促し続けるのですが…ココでまた、驚きの反応となります。
半数以上は、謝って走り去るのですが…
逆ギレして絡んでくる者も現れます。
酔っていることもあるのでしょうが、集団行動となると性質(たち)が悪くなる傾向ですね。
幸いにして、こちらはかなり大型のカラダつきなので、相手が暴力を振るうことはありませんが…
「立ションなんて、してへんわ!休憩や!電話してたんや!」と噛みつく勢いで言い放つ行動に出たり…。
もっと酷いと、注意された人物が、「こいつが目くじら立ててやんの」と仲間を連れ戻って来て、嘲笑しに来るケースまで…。
気づいてから、ずっとマンション前で見張りをしていないといけないことには、怒りを通り越して、もう最後は悲しくなりましたね。
ちょっとした心の傷を負う暴力を受けたのと大して変わりありません。
ボクら住民も…注意喚起とか、叱責が原因でのトラブルを望んでいるわけではありません。
軽犯罪として警察に突き出すことだってできるのかもしれませんが、ボクらもそういうことを望んでいるわけではないのです。
警察沙汰にして、戦って勝ちを得るのではなく、戦わずして価値を創りたいのです。
なぜなら…ボクらの願いは一つ。
いいえ、これは、近隣住民だけの願いではなく、本来…誰にでも持ち合わせている願いなのです。
「愉しく、和やかに、毎年の桜を楽しみたい」
…ただ、それだけです…。
毎年、日本の美しさをあらためて噛みしめる数日間だけのこの楽しみ…。
みんながあたり前の心構えとして、サクラを楽しんで、気持ち良く明日を迎えたいだけなのです。それは、近隣住民も宴会をしている人達も、同じ想いのはず…。
一時的な軽率な行為であっても、めちゃくちゃ自分勝手な振る舞い…コレが、どれほど人を嫌な気持ちにさせるか…。
その軽率さは、傘置き場から、他人の傘でも平気で盗む人が後を絶たない身勝手な空気に似ているのかもしれません。
さらに、個人で叱られたことをネタにして集団で逆襲してくる器の小ささほど見苦しいものはありません。
そして、もっと怖いのが…
この小さな軽率の積み重ねが、大きなモラルクライシスにつながるということを、微塵も感じていないという点です。
つまり、このままでは近隣住民から、花見禁止・露天出店禁止運動に及ぶなど、悲しい事態につながりかねないし、誰もそんなことをしたいと思っていません。
実際、町内の別の桜が多い公園では、「花見禁止」になっているところが存在します。そうした事態も起きているのに、何ら罪悪感なく立ちションをする人達には、「風物詩を楽しむ場所をまた一つ失くす」と我が身に降りかかる自覚なんて、微塵もないのでしょう…。
「近隣住民はすぐに感情的になる」
「この辺りの住民は気難しい人しかいない」
その場にいる彼らの反応から、地元の人間がそのようなレッテルを貼られるのも、たまったものではありません。
そもそもボクらは、目くじらを立てて注意喚起をしたいわけではありません。
ボクらは、風情あるサクラの表情に目を細めていたいだけであり、そういう向き合い方こそが、暮らしの日常である「価値」を大切にしたいだけなのです。
日本は、海外で行われるサッカーワールドカップ会場で、日本人サポーターがゴミを持ち帰る姿が世界で絶賛されたこともあります。
友好関係が揺らぐ中国でも、日本人の子供は、とても礼儀正しいとメディア紹介されているニュースもありました。
それなのに…外面(そとづら)ばかり良くて、身近な暮らしで起きているこの状況…この国の人たちは、一体どうなってしまっているのか…とても不安になります。
こうしたことは、全国での桜の名所、スカイツリーなどの観光名所や、世界遺産に登録された場など、多くの人が訪れるところで、ゴミの放置や騒音で悩む近隣住民も同じ想いではないでしょうか?
地元の人間は、みんな、多くの人が外部からやって来ること自体がイヤなのではありません。
無責任な振る舞いが大多数となり、あたり前のモラルが少数派になりかねないことが悲しいのです。
つい先日も、花見で横浜の公園半分以上を5日間「場所取り」をして、 ネットで非難殺到の結果、「謝罪」「撤退」したプラント建設大手企業のことがニュースになっていました。
これはモラルの低下というより、「麻痺」と言わざるを得ません。
大手の企業文化にまで静かにモラル低下が浸透してしまうという現実は、本当に怖いことです。
合理化・効率化の過度の追求によって、ヒトとしてどこか大切な「あたり前」を失っていることはないでしょうか?
稼ぐということはもちろん大切ですが、その反面、過酷な競争社会において、いろいろな犠牲を払って蓄積されるストレスの捌け口に、いろんなモラルを知らず知らずのうちに失ってはいないでしょうか?
そろそろ、この国は、もう少し丁寧に日々の暮らし、自分のなりわい、子供達にも魅せる大人の背中について、しっかりと向き合うことを始めても良いのではないでしょうか?
そうした積み重ねは、必ずこうした場面の振る舞いとなって表れます。
この話の本質は、「立ちションされて悲しむ住民」という話ではありません。
昨今、「○○禁止」っていう公園ばかりが目立ちます。
キャッチボールができなくなったり、バーベキューができなくなったり、犬の散歩禁止なんていう公園すら出てきている残念な状況…。
なぜ「○○禁止」っていう事態が生まれてしまうかを、もう一度考えてみたいところです。
「花見禁止」「キャッチボール禁止」…いろんな楽しみを失う、悲しいことです。
近隣住民だって、楽しく花見したいし…キャッチボールやバーベキューもできる公園を、取り戻したいのです。
ボクらの地元では、桜の名所となる大きな公園がありますが、そこはゴミ持ち帰りが原則にも関わらず、お花見の翌日には、大量のゴミが散乱します。
「誰かきれいに片づけておいてくれるだろう」…毎年続くそんな身勝手で甘えた行動の積み重ねが、「花見禁止」という悲しい事態を招く可能性があることを、何ら気づいていません。
この公園では、一昔前までは、週末になるとバーベキューを楽しむ家族も多かったのですが、炭の処理やゴミ放置などのマナー違反が多すぎて、まずは「バーベキュー禁止」となりました。このままでは花見もいずれ…と心配しています。
なんでも「禁止」にすることは簡単なことですが、なんでも「禁止」にされることは寂しいことです。
こうした規則やルールではなく、「みんなで細く長く楽しむ」ために、最低限のモラルを維持する「文化」の維持向上が求められるのは言うまでもありません。
そう、あたり前のことなのです。
しかし、そのあたり前のことができなくなっている今の現状にとても憂慮しているわけです。
常に風通し良く、その場やその時間にしか味わえないことと丁寧に向き合い、穏やかに自由な楽しみを続けるためには、あたり前を感じる「文化」を、一人ひとりが考えていきたいところですね。
とても小さな積み重ねは…「文化の破壊」の「文化の向上」の、どちらにもつながります。
この話は、もはや、小学生に聞かせる道徳の授業のようなことではありません。我々オトナがコドモ達に笑われるか悲しまれる社会全体に言える話です。
日々の暮らしも、自分のなりわいも、地域の子供の育みのどの場面も、一つひとつをもう少し丁寧に向き合っていれば、こういうことは起きないはずなのですが…。
ボクらが、この『レーベルそら』で語り続けるのは、『依存型消費者から脱却して、「自分にできること・自分だからできること・自分にしかできないこと」を見出す創造的生活者を目指そう』というものがあります。
しかし、そうしたクリエイティブな一歩を踏み出す前に、まずは、日々の暮らしと「丁寧」に向き合うことから始めないといけないのかもしれませんね…。
日々の暮らしをもっと丁寧に向き合うことから、新たな価値創造が産まれる機会もたくさんあるように思いますし…大味な経営をしている大手企業ほど、そうした点を見過ごしがちだったりもします。
また、あらゆる場面での「大型化」に、どこか限界も来ているのかもしれません。
つまり、もう少し、経済も、街も、人のなりわいも…お互いの顔が見える範囲でのコンパクトさが求められる時代に突入しているという仮説です。
お互いの顔が見える小さな町では、そうしたモラル低下は起きにくいのかもしれませんし…。
さて…現在、自宅マンションでの「花見時期立ちション防止対策」は、具体的な対処方法によって少しずつ減っています。
まったく無くなっているわけではないようです。
しかし、ここで訴えたい本質的なことは、先にも述べたように、何もお花見に関することだけのことではない「オトナの心構え」であるということをご理解いただけると幸いです。
ルールや規則以前に、細く長くみんなで楽しめる「文化」…モノが乏しく、経済的には発展途上だった古き良き日本には、もっとたくさんの「あたり前」があったのではないでしょうか…。そろそろ心豊かな「あたり前」を取り戻しても良いですよね…。
このコラムはこの辺りで締めくくるとして…
「ルールづくりよりも文化づくりの大切さ」という本質的なことに共通するテーマとして、どのマンションでも必ず訪れる大規模修繕や建て替え決議に向けて、とても大切な「笑顔のコミュニケーション文化」のあり方があります。
これについては、またの機会でアウトプットして、「区内で一番あいさつの多いマンション」と地元区役所にも取材された事例を引き合いに配信します。
Backstage,Inc.
カワイ ヨシノリ