Column SORA

     

間(ま)と向き合う

ヒト・トキ・モノの「間(ま)」

 

モノとヒトの「間」が『空間』。

モノとモノの「間」の配置が『間取り』。

前にあることと後にあることの「間」が『時間』。

心と心の「間」を楽しむのが『人間』。

 

この「間(ま)」にゆとりがないと…いろいろギスギスします。

あらゆる場面での「間(ま)の無さ」が、いろんな場面で残念なことが起きてしまう原因になっていたりします。

逆に、「間(ま)」と丁寧に向き合っていると、いろんな場面でクリエイティブな暮らしやなりわいになってくることがあります。

 

「間(ま)」を大切にしていると…

  • 自分の暮らしの中や部屋の中のインテリアを楽しもうとするから、好きな「空間」が育まれる。
  • 家具の配置を工夫し始めて、無駄な買い物をしなくなるから、余裕がある「間取り」にできる。
  • いくら多忙する環境となっても、心を亡くさないことを心がければ、ゆとりある「時間」を過ごせる
  • 自分の考えを押し付けようとはしなくなり、自然と「共感できる人間」にも巡り合える
    などなど…

この「間(ま)」について、ヒト・トキ・モノのそれぞれについて、今回は深く掘り下げてみました。

 

 

組織に必要な「間(ま)」

「間(ま)」がない組織・チーム…これはどうしても人間関係がギスギスします。よく「世知辛いご時世」と喩えられることの元凶の多くが、この「間(ま)」の無さではないかという仮説です。

  

なんでもかんでも、合理化・効率化・システム化によってこの「間(ま)」を与える余地がなくなると、社会構造のいろんな場面で、不自然な歪みが生じる時があります。

 

例えば…

 

商品開発において「コレは、創っている私達が本当に欲しいものなのだろうか?」…このあたり前の感覚で、一呼吸おいて、立ち止まる「間(ま)」が与えられていないと、いつの間にか人としてごく自然な感性が麻痺してしまいます。

「造ってしまったのだから」「仕入れてしまったのだから」という流れの中から、「売り切るためにはどうする」かが主体となってしまう本末転倒なことが起きる…これは誰もが心当たりがあることではないでしょうか。

  

やはり、経済活動をしている組織内・チーム内の人の育成においては、常に「間(ま)」というものを、しっかり意識する必要を感じます。

  

少しの「間(ま)」も許されない「間髪入れず」のカツカツのノルマ主義で、使命感ばかり詰め込められ続けると、鍛錬というものを超えて、マインドが「機械化」されていくのと同じになりがちだからです。

「間(ま)」を全く与えられなくなると、人間の思考能力と行動力は低下し、クリエイティブ性・創造力はどんどん奪われ、企業ノルマ達成ばかりに洗脳される傾向が強くなります。

 

「間(ま)」は、小さな失敗を恐れずに心豊かな価値創造に向けたチャレンジをし続けるための「心の余力」と置き換えても良いのですが、それが存在していないのなら、もはや「絶対失敗しないように」という委縮した言動しか生まれなくなります。

いや、言動どころか、言葉も行動も能動的な一歩が出なくなります。

 

「間(ま)」を、カジュアルな表現にすると、「ワクワク感」や「あそびゴコロ」と言ってもイイでしょう。

それが失われた中での業務遂行は、なかなか価値創造に向けた意欲は生まれにくくなり、上司のご機嫌伺いをしながらの「作業」になる傾向がどうしても強くなります。

 

「うちの社員は、常にチャレンジだと指示しているのに、なぜか委縮してばかりだ。」と嘆く経営者や管理職に出会うことも多いのですが、そういう方々に限って、徹底した管理体制や失敗が許されない空気感を創っているため、「間(ま)」の全てを奪ってしまっていることに気づいていないという皮肉もあったり…。

  

確かに、組織を統率する上で、それぞれの気の緩みや脇の甘さは抑えたいところではあります。心に「隙間」は与えてはいけないのでしょう。心に「スキ」ができてしまうと、業務上のクオリティに「隙間」が生じてしまうことだってあるからです。

しかし、知らず知らずのうちに管理している中に、全ての『間』まで奪っていることに自分自身が気づいていいないことも多いのです。

 

 

教育での「間(ま)」違い

 

今では「ゆとり教育の成れの果てが、使えない人財ばかりを産んでしまった」と揶揄されることが多いようです。

個人的に思うのは…本来、あの「ゆとり教育」とは、詰め込み式の勉強だけでなく、創造力と自主性を育む教育環境の整備が同時にされていくことが必要だったのではないかと…。

 

たとえば…じっくり本を読んだり、美しいものを見に行ったり、何かを造ってみたり、憧れを追ってしっかりとスポーツに勤しんだり…そういう過ごし方の「環境整備」が周りの大人達でしっかりと為されないまま、どこか見切り発車されていった感じが強い気がします。

そのために、時間にゆとりができた子供達は、想像力・創造力・自立性の育みに充てられるのではなく、家庭内ゲームなどに走ったりして、楽しいことよりも「ラク」なことに興味を向けさせる「隙間」を与えてしまったのかもしれません。

 

つまり、ゆとり教育の意義を理解する大人教育が無かったため、子供自身が自分の心身を研ぎ澄ます「間(ま)」を楽しむ環境を、周りの大人達が整備しなかったことが、一番残念なのです。

 

フィンランドやデンマークのように、小学生のうちから「まちづくり」や「おカネと経済」を体感させるワークショップが、イベントとしてではなく、塾のように常設的にある環境。または、ミニバスケなど少年サッカーなどの少年スポーツで、仲間との絆・協調性・忍耐力から見出す場への推奨。

…そのようなことを一切せずに、「なんだか…ゆとり教育なんだってね~」くらいの無関心な大人達が、子供達に『隙間』を与えてしまっただけなのではないかと…。

 

子供の個性を伸ばす才能開花のために、好きな事を能動的に自発的に取り組めるための時間として、『好き間』にしてあげないといけなかったのに、単に『隙間』にしかならなかったのです…。

結局は、「間」の取り方を違えたのでしょう。

  

  

自分でつくる「間(ま)」

個人的には、さまざまな場面のモノや空間の「デザイン」については、全く勉強していないので…恥ずかしい話、大変な無知です。

各種デザイナーの方々には、「素人の戯言」の失礼をお許しいただくとして…デザインされるまでのプロセスはともかく、デザインそのものは、デザイナーのものでも企業のものでもなく、生活者の暮らしのためにあるものだと思っています。

 

しかし…一方で…生活者も、全ての事をデザイナー任せにしている依存傾向も強すぎる気もしています。

  

つまり、生活者のそれぞれが、自分らしい『間』を本気で楽しめるようになれば、生活者の一人ひとりは、立派な「デザイナー」ではないかと…。

オンリーワンの暮らしは、企業やデザイナーの付加価値の中にあるのではなく、それぞれの生活者の中にあるのですから…。

 

  

自分の「間」に合わせる

 

日本住宅では古くから「床の間」がありました。

その、静粛の中に感じる『間』の取り方として、旬を感じさせる最高のインテリア空間だったように思えます。

 

しかし…どうも世の中が、合理化と生産性と利便性の追求みたいなことが主流になり…人々の動きも「合間を縫って」せわしなく生きている感じが当たり前のようになってしまいました。

そこに、どこか「自分らしさ」を見失い始めている上に…マンションデベロッパーや住宅メーカー側が用意した「空間に自分の暮らしを合わせる」ことが主流になったりして…。

 

本来そうしたことばかりではなく、生活者それぞれの独自の「暮らしに空間を合わせる」ことを、もっと楽しんでもイイ。

それこそが、明日からまた楽しく働く意欲になることだってあるのに…。

  

いろんな家族がある中で、家族同士の『間』もそれぞれのはずです。

よく、理想の母親像とか、理想の父親像とか言われることがありますが…そんなマニュアル的なことにこだわるから、不自然になります。それぞれの家庭の「自然体」で構わないのです。

とにかく「やり方」や「マニュアル」に依存するのではなく、自分の家族なりの「あり方」を自分達で創ればイイのです。

  

子供が興味を持ち、子供も美しいと思ってもらえる設えをして…子供が楽しいと思ってくれる夫婦の会話があったり…そんなことにマニュアルなんてあるはずがありません。

なぜなら、それぞれの家族の『間』は、オンリーワンなのだから…。

  

 

間に合わせる』という言葉があります。

 

これは、「その場しのぎにとりあえず」的な意味合いが強いですが…自分らしい暮らし・自分の家族らしい暮らしを主体にしてみると、それぞれ独自の「間に合わせ」は、もっと能動的で楽しいものの意味に変わり得るのです。

  

  

コミュニケーションのアウトプット

ここで、「本来、暮らしを楽しんでいる人とは…」ということに関して、考えてみましょう。

 

私たちが考える「暮らしを楽しむ人」とは、裕福な暮らしということではなく、『家庭との会話の潤いを大切にしている人、丁寧に暮らしている人』なのです。

 

丁寧に暮らす…そこには「心豊かさ」を感じる「ちょっとした行動」を起こしているかどうかによるところが大きいように思います。

 

家庭の中で、さまざまなモノ・トキ・ヒトとの「間」を丁寧にしつらえている人からは、ホッとさせられる「心豊かさ」が伝わって来ますし、自分の家族らしい暮らしを楽しんでいる印象を強く感じます。

そこには常に、日頃の何気ない生活の中に、ほんの小さな「間」・ちょっとした「間」があるかどうかで感じ取ることができます。

 

たとえば…

  • ダイニングテーブルにちょっとお花を添えてみる
  • 食卓に並ぶ器の色や旬な食べ物にちょっと意識して家族との会話に向き合う
  • 飾り棚をちょっと作ってお気に入りの小瓶を置いてみる
  • 部屋の灯りの間接照明などにして部屋の拡がりを楽しんで気持ちをゆったりさせる
  • カーテンやベットカバーのファブリックのデザインを季節ごとにちょっと楽しんでみる
  • クッションカバーを優しいリネン素材にして家族と一緒にその肌ざわりにちょっとホッとしてみる

 

…そこから産まれるちょっとした「ゆとり」のような「間」…そのそれぞれの家族の小さな自己満足こそが、オンリーワンな幸せだったりするのですから…。そうしたことを楽しんでいる過程には、ちょっと「こういうのはってどう?」っていうその家庭ならではの感性に話が弾んできたりします。

  

暮らしを楽しむ「過程」には、笑顔の自己発見や、想像力の働かせなどがあり…

暮らしを楽しむ「家庭」には、会話の潤いと心の触れ合いがある。

 

だからこそ、暮らしを楽しむ「空間づくり」とは…「人間関係の円滑化」「人の心の育み」など、ちょっとした行動による『コミュニケーションのアウトプット』そのものではないかと…。

 

個々の家庭オリジナルの「暮らし」…つまりは、「オンリーワン」という価値創造力は、企業だけのものではなく、各家庭の中にあるべきものと信じて疑いません。

 

各家庭オリジナルの「間(ま)」は、もっともっとたくさん産まれても良い頃です。

 

  

まとめ

『間(ま)』

 

『いろんな場面での「間(ま)」が好きでそれを楽しむ人』が増えると、家庭レベルで、教育現場レベルで、企業レベルでも、もっとクリエイティブなことが生れる気がしてなりません。

 

『間(ま)と丁寧に向き合うと気持ちが豊かになる』…それを本質的に感覚的に解る人が小さなことからでも行動に移し始めると、日本の価値創造力はもっと上がると信じています。

 

そのためには、もっと生活者一人ひとりが、自立と自律を育まないといけません。

すぐに「やり方」「ノウハウ本」「マニュアル」に依存してしまうのではなく、小さな失敗を恐れずに自分達なりの「あり方」を、自分で見出すことを楽しめるようになると、その「成長」は早くなります。しかも、一歩ずつ確実に…。

 

オンリーワンは、企業側のモノではなく、一人ひとりの生活者の中にあるとすれば、そこには常に「成功」なんて尺度はなく、「成長」という表現のほうがしっくり来ますね。

 

「間(ま)と丁寧に向き合う」ということは、自分の暮らしを自分達で「育み続ける」ということなのかもしれません。

  

 



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